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第五章 マルチ人間への道 ‐真に有能なビジネスマンに‐

ビジネスマン

意識的に同時並行作業を導入する

さて、本書のような速読法の紹介書籍を書き著すと、まず必ずといってよいほど、質問されることがある。「この本だけでトレーニングして、本当にジョイント速読法が身につきますか?」というような内容である。もちろん、答えはYESである。しかし、百パーセントとは、残念ながらいかないだろう。

 

まず、八割の方はジョイント速読法が身につくはずであるが、その倍率は、となると、だいたい三倍から五倍ぐらいではないだろうか。その根拠であるが、新日本速読研究会では、各地の研究室に受講を希望して訪れる方々の読書能力を、最初のガイダンス時に測定している。

 

そうすると、大多数の方が異常に速くて、約八割の方が、日本人平均の三倍から五倍の読書能力(分速千二百文字から二千文字)を持っている。これは、対象をランダムに抽出して測定した場合には、分速二百文字から千文字の間で正規分布曲線を描いて、それ以上も以下もめったに現れないのであるから、〈ありえない〉ことである。

 

そこで、質問してみると、戻ってくる答えの大多数が、「本を読んで練習してみたところ、速くなりました。それで、研究室に通って、ベテランの先生から指導を受けたら、もっと上達するのではないかと考えて、やってきました」というような内容である。

それで、前述のような数字を出したわけである。

 

ところが、世の中には要領のよい人、〈一を聞いて十を知る人〉がいるもので、中には、「本を読んで練習したところ、読書スピードが十倍(この場合は、日本人の平均値の十倍ではなく、その人の初速度の十倍)にもなって、おかげで受験勉強がはかどって早稲田大学にも、現役で入学できました。今では、もちろん自己流ですが、インストラクターとして友達にも教えられるほどです」などという人もいる。

 

これは実際にあった話で、しかも一例や二例に留まらない。

そうかと思えば、その逆で、「いくら練習しても、ちっとも速くならない。ジョイント速読法の修得率は九十七パーセントだ、なんて豪語しているけれど、インチキだろう!」などと非難して
くる読者もいる。

 

その語調があまりキツかったりすると、筆者もついムカツとして、「そうです。あなたがその、該当しない残り三パーセントの中の一人ですよ」などといいたくなるのであるが、それではあまりに大人げないので、本書では、もう少し詳しくジョイント速読法の要領について述べることにする。

 

それが、ひいては、本書の章題にも唱った〈高感度マルチ人間への道〉を切り開くことに通じる。

 

端的にいえば、このような紹介轡籍だけでジョイント速読法を修得できてしまう人は、〈要領のよい人〉、まるで上達しない人は〈要領の悪い人〉ということになり、おそらくその間でも正規分布曲線を描いて、大多数の人はそれなりに上達する(それが、三倍から五倍という数字である)はずである。

 

そして、その要領のよい悪いの差がどこに出るかというと、訓練中に〈同時並行作業〉を意識的に導入することができたか否か、ということが第一である。

人間には同時に複数の作業を並行して実行する能力がある

ここでちょっと脱線すると、人間は死ぬまでに大脳の持てる潜在能力の、せいぜい一割から二割程度しか使わず、残りの大部分はまったく使わずに、無駄に遊ばせたまま死を迎える、といわれている。

 

大脳の能力の一割しか使いこなせなかった者は〈凡才・凡人〉で終わり、二割も使えた者は(天才・英才〉として賞賛されるが、結局のところ使いこなせなかったことにおいては、〈五十歩百歩〉である。

 

それでは、どうして人間は持てる潜在能力の一割から、せいぜい二割程度しか使うことができないのか、筆者らの考えによれば、人間には同時に複数の作業を並行して実行する能力があるのに実行しないで、一度に一つずつ順番に片づけていく、〈直列処理方式〉で何事にも対処することにすべてが起因している。

 

あなたは、少年少女時代に、こんなことを両親から注意されたことはないだろうか?あるいはまた、学校で学んでいる学童世代のお子さんを持っていて、こんなことを注意してはいないだろうか?

 

「一度に、いくつものことをやってはいけないぞ。そんなことをすると、どれもこれも中途半端に終わってしまう。一度にやることは一つだけにして、それを完全に片づけてから、次のことに取り組むようにしなさい」と。

 

同時並行にいくつものことをやると、どれもこれも中途半端になる、というのは、実際には固定観念に縛られた偏見である。実は、人間には、同時並行にいくつものことを完全にやりこなす能力があるのだ。

 

そういわれて、すぐに同時並行になにかをやり出せるのが要領のよい人間であり、要領の悪い人間は固定観念に縛られて疑いの目でみ、いつまでもグズグズと、それまでの能率の悪い方式を踏襲し続ける。

スポーツの世界では同時並行処理が常識

速読法の訓練の過程でも何度か例として出したが、ここでまた、バスケットボールとサッカーのことを考えていただきたい。監督が選手にマンツーマンディフェンスを指示したとする。

 

マークする特定の相手選手を決めて、その選手にピッタリくっついて離れないのがマンツーマンディフェンスであるから、マークするように指示された対象の選手以外の選手は、まったくみなくてもよいのだろうか?

 

「マンツーマンなんだから、あっちこっち、キョロキョロとみるんじゃない! 決められた一人の相手だけをみていりゃいいんだ」と監督は注意するだろうか?

 

とんでもない、それでは全体の攻防の流れがみえないから、マークしている相手の次の動きを予測することができず、あっけなくフェイントで抜き去られるだろう。また、敵の不意をついてパスを途中でカットしたりして、防御から攻撃に転じることもできない。

 

決められた相手選手をマークするのと同時に、敵のほかの選手、また味方の選手の動きもみなくてはいけない。難しくいえば、同時並行に複数の情報を処理しなくてはいけないのである。もちろん、走力やボールコントロールのテクニックも重要であるが、一流選手と二流選手の分かれめは、一度にどれだけ大勢の選手の動きをみていられるかにある、といってもいい。

 

しかも、現時点での位置や動きをみるだけでなく、数秒後の未来の位置や動きも、予測できなくてはならない。この例をみてもわかるように、スポーツにおいては、「同時並行にいくつものことをやると、どれもこれも中途半端に終わる」のではなく、「同時並行にいくつものことをやりこなせなければ、中途半端に終わって、けっして一流選手にはなれない」のである。

並行処理ができないのは単なる練習不足

こう書くと、読者諸氏はおそらく、「いや、それはスポーツの世界だからいえることで、勉強だとか読書だとか、知的な活動には、当てはまるわけがない。論理の飛躍だ!」と。反論されるに違いない。そうではない。

 

単なる練習不足だから、できない。ちょっとやってみたが、できなかったので、永久にそういう器用な芸当はできない、と思い込んだだけの話である。

 

一流のサッカーやバスケットボールの選手も、最初から一度に大勢の選手の動きを見極められたわけではない。最初は、右の選手をみれば左の選手がみえなくなり、左の選手をみれば右の選手がみえなくなり、という状況だったのが、訓練を積んでいく間に次第にたくさんの要素がみえるようになっていったのである。

 

また、これはサッカーやバスケットポールのような団体競技だけとは限らない。卓球やテニスのような個人競技、柔道や剣道、合気道、少林寺拳法のような武道であっても同様のことがいえる。どんなスポーツや武道でも、初心者は上級生や監督・コーチから打ち方、守り方、体の動かし方の基本を教わる。しかし、最初から教わったとおりに体を動かせる者は、皆無である。

 

手のことを考えれば足の運びがおろそかになり、足の運びのことを考えれば、手の動きも腰の動きもバラバラになる。どうにか、手と足と両方に意識を向けることができるようになったかと思えば、今度は飛んでくるボールにまで神経を配ることができず、空振りしたり振り遅れたり、あるいは武道だったら、相手の上からの攻撃に神経を注ぐあまり、下からの攻撃にまるで無防備になったり……。

 

勉強などの知的な活動で、同時にいくつものことを並行して行うのも、実は同じことで、練習次第でいくらでも可能になるのである。知的な活動では、同時並行に複数の作業ができなくて当たり前だと思われるのは、自分の身近に、知的な活動の分野で同時並行にいくつもの作業をやりこなしている器用なマルチ人間がみあたらないにすぎない。

 

そして、伝説的なマルチ人間の話を聞くと、深い検討もせずに、「そういう人は生まれつき頭がいいんだ。自分とは別世界の人間だ」と思い込んでしまう。

 

実際には、生まれつき頭がいいのではなく、どこか早い時点でその要領を身につけたのであり(親がマルチ人間だった、というのもその場合に該当する)、早くからその方式で勉強してきたので、ほかの者に差をつけることができて秀才・英才と呼ばれるようになったのである。そのことに気づいて意識的にトレーニングを積めば、だれでもマルチ人間になることは、さして困難なことではない。

 

けっして平易ではないが、「一輪車を乗りこなすことは物理的に不可能」などといって練習しなければけっして乗れるようにならないけれども、深い理屈など考えず、一生懸命に取り組んでいれば、まず大多数の人が一輪車に乗れるようになる。それと同程度の熱心さがあれば、マルチ人間になれることは保証してもいい。

同時並行処理で記憶力も創造力も増す

また「知的な活動で同時並行にいくつもの作業をやったら、よく内容を覚えていられないし、注意力も散漫になって中身が薄くなる」と思い込んでいて、反論する人も多い。これも、非常に狭い自分の経験を基にして、固定観念に縛られた偏見でいっているのであって、事実は、同時並行でいくつもの作業を意識的に訓練としてやったほうが、よく内容を覚えていられるし、注意力も向上して逆に中身が濃くなる。

 

速読法の訓練で、意識的に理解力を落として読む、あるいは〈上下二点以外読まず訓練〉のように、理解力をゼロにして、単にみる、という訓練をやったことによって、読書能力が飛躍的に向上することをみてきたが、できてもできなくても、まず同時並行に複数の作業をやることを実行する必要がある。そうすると、それ以下のレベルでは、同時並行作業が可能になる。

 

読み収れないレベルで訓練していると、いつしか自然に、読み取れる上限のスピードが上がっていく、というのと同じ理屈、同じ現象で、脳の眠っていた潜在能力が、ごく自然に活性化されるのである。

 

単純な(しかし実行は難しい)同時並行作業として、ちょっと試みに本書の右のページと左のページとを、同時並行に読んで内容を理解する(右目で右ページを読み。左目で左ページを読む)、ということを、やってみていただきたい。

 

これが実行できれば、これまでに紹介してきた速読法の訓練と併せて(相乗効果〉で、あなたの読書能力は5倍や10倍どころか、はてしもなく速くなっていく。

右脳型と左脳型の根本的な違い

さて、これは、指示された内容は理解できるが、実行できない、いわゆる〈いうはやすく、行
うは難し〉の典型である。

 

「人間はマラソンの42.195キロを二時間半以内で走ることができる!」といっても、街いく人をランダムにピックアップして調べたら、まず、一人もそんな走力の人に出会えないが、それと同様にきわめて確率が低い。

成人の場合だと、千人に一人も現れるかどうか、という確率の低さである。

 

日本人は、左脳型(直列処理型)と右脳型(並列処理型)に分類すると圧倒的に左脳型が多いが、前述の作業は右脳型でも(超〉の字がつく典型的な右脳型の人(天性のマルチ人間か、写真家・画家などの右脳的職業に従事している人)でなくては、実行することができない。

 

まず大多数の人は、右のページをみれば左ページは視野から消え、左のページをみれば右ページは視野から消え、という状態になるはずである。ところが、右脳型の人だけを意図的に集めてくると、いとも簡単にやってのける人が、実に三割ぐらいは現れる。

 

「ああ、ナルホド、速読法というのは、こうやるものなんですかあー」と感心したようにいってのけ、ロクな訓練もせずに、いきなりその場で、読書スピードが五十倍になったり百倍になったりする。何日も訓練した末に、5倍とか10倍でウロチョロしている人にとっては、うらやましい限りであるが、しかたがない。

直列処理読書の原因は音読教育

なぜ、そういうすぐれた能力を持っている人でも、この革命的な読み方に気づかなかったかというと、端緒は小学校時代の音読教育に原因がある。小学校では、生徒が教科書を正しく読んでいるかどうかをチェックするために、先生はまず最初の段階で音読をさせる。ところが、人間の声帯というのは、一度に二つ以上の音を発することができない構造になっているから、文字を端から一つずつ順番に読んでいくことになる。

 

そして音読をする必要がなくなり、黙読に切り替えるようになってからも、一種の条件反射で、同じように端から順番に読んでいく、効率の悪い読み方を踏襲する。そうすると、たとえば人間は喫茶店に入って話に熱中している時には、相手の声以外の話し声や雑音、BGMの類が耳に入らないようにする。という(大脳の自動取捨選択能力〉があると述べたが、この同じ機能を発動させて、自分が現在、意味を読み取っている対象の文字群以外はみないように、視野から外してしまう。

 

網膜にはうつっていても、みないようにしてしまう。そのうちに目全体の機能が衰えてきて、細かい部分を識別できるのは、視野の中心部に限られてしまい、みなさい、といわれてもみることが難しくなる。

 

喫茶店の会話の場合だと、その気になれば、相手の声を聞きながらでも、隣の席の客の声や、BGMを聞くことができる。右脳型の人だと、そういわれただけで右のペー・ジと左のページを同時並行に読むことができるようになるのは、それとまったく同じである。それまで機能していた、大脳の自動取捨選択スイッチを、単にOFF状態にしてやればよいのだ。

 

ところが左脳型の人だと、いわれただけでは可能にならないのは、自動取捨選択機能の発動に加えて、すべての面で直列処理的な習慣になってしまっているために、右脳型の人に比べて視野の絞り込みの度合いが激しいからである。

 

前述のスイッチの例でいえば、ONの状態になったまま動かないように、接着剤で強固に固定されてしまっているようなものである。だから、左脳型の人を右脳型に転換させるためには、これまでいわれ、紹介されてきたような右脳鍛錬法ではダメで、スイッチを少しでも動きやすくする訓練プログラムを取り入れなければならない。それが、読書時に意識的に同時並行作業を導入する、ということで、目を使うという点では難しいから、まず思考の面でそれを行ってみることである。

もっとも平易な同時並行作業から始めよう!

何度も述べるように、スポーツに上達してくると、初心者にはできなかった様々なことが、楽々とやりこなせるようになる。手足を同時に動かすことが。まずそうであるし、上達してさらに高度になると、相手の動きを予測する、ゲームの流れを組み立てる、といったことまで可能になる。

 

こういったことができるようになるためには、いつまでも素振りだけやっていたのではダメで、実際にコートやグラウンドに立って球を打ち、なかば無意識に身体を動かすことに慣れさせなくてはならない。

 

速読法というのは、能力開発に関しては〈素振り〉のようなものであるから、これまでに述べてきた方法で、ある程度まで速読できるようになった見通しがついたら、意識的に同時並行作業を導入するようにするとよい。といっても、左右のページを同時に読み取るような、いきなり高度なことからは無理なので、できるだけ簡単なことから始める。

 

最初は、速読の訓練をしながら、クラシックの音楽を鑑賞することである。

 

クラシックの音楽だったら、まず大多数の人にとって、読書の支障にはならないはずであるが、大脳の自動取捨選択機能を発動させてしまって聞こえないようにするのではなく、あくまでも音楽として鑑賞しながら速読するのである。次に、このBGMの音楽を、軽音楽、ポピュラーソング、演歌(歌詞に意味がついている歌謡曲でもかまわない)と変えていく。

 

クラシックは右脳的音楽であるが、演歌は左脳的音楽で、左脳的要素が強くなればなるほど、同時並行でやることが難しくなる。

平易なものから高度なものへ

よく受験勉強で、BGMにクラシック音楽を流すのはよいが、ポピュラーや演歌は能率を下げるのでダメだ、といわれるのは、前記の理由による。スポーツの場合、フォーム固めの素振りが不十分な段階で、実際に球を打ち始めると、打ちたい意識が先走るあまり、フォームが崩れて、元の木阿弥に戻って最初から素振りをやり直さなければならないことが往々にして起きる。

 

それと同じことで。同時並行作業の訓練も。いきなり最初から難しいことに取り組んでは失敗する。取りかかった当初は平易なものから始めて(だから、読むほうに関しても日経のような高度なものでなく、スポーツ紙や週刊誌のようなものから試してみる)、段階的に高度なレベルに進むのがコツで、やがては速読しながら演歌を流しても、なんの問題もなく内容が正確に把握できるようになる。

 

さて、速読しながら音楽を聞く、というのは受け身的な作業であるから、適当な段階で能動的な作業も取り入れて、ちょっと大脳の負荷を大きくしてやる。

 

スポーツでいえば、音楽を聞くのはコーチが決まりきった場所にポールを打ってくれて、その場でそれを打ち返す定型の訓練に相当するので、その上の、どこに球を打ってくるかわからない〈乱打〉、四方八方に走り回って打ち返す訓練へ進む。

 

具体的には、速読して文章の内容を把握しながら、歌を歌うのである。 それも、最初は無意味なタイミングから始めて、ちゃんとした歌詞のついている歌へ進むようにする。

あなたも今日からマルチ人間だ!

前記のことができたら、その次は、速読して文章内容を把握しながら、まったく別のことを考える、ということに取り組んでみる。強く意識しなければ文章の内容が正確に把握できなかった時代には、こんな器用なことは、とうてい不可能である。

 

コーチから教わったフォームを気にして、頭の中でチェックしながら、意識して手足を動かしている状態では、乱打に取り組んでも、単にフォームを崩すだけであるが、それと同じことなのだ。

 

しかし、速読の訓練を通じて、徐々に意識の使い方を希薄にしつつ、なおかつ、内容の把握力を落とさない、ということに慣れてくると、これができるようになる。文章を読んで、その内容を理解し把握している自分と、まったく別の無関係のことを考えている自分と、二人の自分が一つの大脳の中に同居しているような状態も生まれる。

 

要するに同時並行に複数の情報処理作業がこなせる、(マルチ人間〉への第一歩を踏み出した、ということなのだ。ここまで器用に自分の脳細胞を使いこなせるようになったら、記憶力・創造力も人並み以上に向上していることは、間違いない。

 

そして、もっと慣れてくると、一つのことだけでなく、二つも三つも、いっぺんに別のことを考えて、そのそれぞれについて、それなりのアイデアを捻り出すことが、十分に可能になる。

日経速読にも同時並行作業が必要

日経を速読することに関して、「続・日本経済新聞の読み方」に次のような文章があるので、またここで引用させていただくことにする。 アメリカでは「速読術講座」という企業内セミナーが、ビジネスマンたちに人気を博している。

 

管理職になるためには、この講習を受けることを必須条件としている企業もあるほどだ。秒刻みで情報が生産され、次々と新しい情報が押し寄せる情報化社会のなかでは、必要な情報を速く読む技術も、ビジネスマンにとって、ライバルに差をつける知的技術というわけだ。

 

ふつう、活字を読む速度は、遅い人で一分間に300字、速い人で約700字といわれる。平均すると、約450字ぐらいである。新聞の、特集記事などを除く通常の一段の文字数は、朝日新聞の場合、1行13字詰めである。

 

日経新聞も近々活字を大きくするらしいが、現在のところ、1行15字で組まれている。したがって、平均的な速度で読む人で、1分間で30行ほど読み進む計算となる。

 

たとえば、日米加に欧州の代表が加わって開かれる四極フォーラム準備会議の解説記事の場合、1段22行で9段に組まれている。これを平均的スピードで読めば、16分かかることになる。

 

一つの解説記事に16分もかけていたのでは、とても必要な情報量は読みこなせない。そこで、新聞を読むにも、速読の技術が必要となってくる。

 

長い解説記事を読む場合、早く読むコツは、「結局……」「つまり……」などの接続詞を使っている文章に目をつけることだ。解説記事では、いろいろと具体例などを引いて、四方八方から一つの事柄について焦点を当てて書かれているが、そこで書き手がもっとも言いたいことは、「結局」「つまり」のあとの文章に集約されている。そこが、解説記事中のエッセンスなのだ。

そこだけを読むことによって、解説記事の要点は、つかめるのである。

 

この方法は、じつはアメリカ式速読術講座でも教えている。これを英語では、QSg’i(スキャンニング)という。スキャンとは「つかまえる」の意味だ。記事のなかから、すばやく必要とする箇所をつかまえる技術がスキャンニングである。

 

スキャンニングは、速読法の基本の一つとされ、目を上下左右、斜めに早く走らせる訓練を積むことによって、人よりも早く必要語句が発見できるようになる。その必要語句のありかを示す手掛かりとなるのが、日本語では「結局」「つまり」などの接続詞ということになる。

 

英語の速読術では、もう一つ、skiヨヨing(スキミング)という方法がある。平らな石を水の表面を切るように投げると、石はポン、ポンとはねて飛んでいくが、これがスキミングである。

 

同じように、記事のところどころに目を止めるだけで、内容の重要ポイントをおさえていく。これがスキミング速読術だ。このスキミングをするためにも、先の二つの接続詞を目印として飛ばし読みしていけば、解説記事の大意を誤ることなくとらえられる。 (引用おわり)

 

日下氏の「正続・日本経済新聞の読み方」は、かなりのベストセラーになった本であるから、本書の前に、この引用された文章を読んで記憶している人も多いはずだ。

 

そういう人は、ここで紹介されたスキャンニング速読法とスキミング速読法を、一応は試してみたに違いない。その結果は、どうだっただろうか?

 

大多数の人(9割以上の人)は、日下氏のいっていることは理解できたが、現実には、できずに終わっただろうと思う。それは、日下氏の文章からでは、意識の使い方、使い分けのコツが飲み込めないからである。これまた、〈いうはやすく、行うは難し〉の典型に属することなのだ。

意識と無意識とを上手に使い分ける

前述のスキャンニング速読法、スキミング速読法ができる人は、どういう人かというと、タイプ分けすれば右脳型に属する人である。

 

そして、意識を全部で十に分割できるとすると、そのうちの八割から九割の部分を使って、スキャンニング、スキミングを行い、残った一割ないし2割の部分の意識(本人の自覚としては、ほとんど無意識に近く、まず自覚することがない)で、つかまえにいっている主要語句以外の言葉をサーチ(検索)して相互に連結させ、全容を把握する、という作業を行っているのである。

 

自分の中に、スキャンニング、スキミングしている、主たる意識をおいている自己のほかに、アシスタントとして、情報漏れを防ぐために、全語句を網羅する作業を行っているもう一人の自己が存在するような状態で読んでいるのだ。

 

だから、意識としては確かに主要語句だけを拾い読み、飛ばし読みしているのであるが、無意識の部分で漏れをカバーしているので、実際には、拾い読み、飛ばし読みをしているわけではないのである。

 

しかし、本人としては、あくまでも拾い読み、飛ばし読みをしているつもりなので他人にそういう見方を勧め、それでは意味がわからないとなると、「お前は要領が悪い!」という片づけ方をしてしまう。

 

日本人の大多数を占める左脳型の人間は、文章を読む時は逐語読みでほかの文字には目もくれず、思考的にも直列処理で、一度に複数の情報を扱わないように習慣づけられているから、飛ばし読みをするとなったら、本当に飛ばし読んでしまって、無意識の部分で残りの部分をサーチして情報の漏れ落ちを補填するなどという芸当は実行できない。

 

意識は、あくまでも一つであり、それをいくつにも分割して使い分ける、などということは、不器用な左脳型人間には想像もつかないのである。

 

それで、形だけは器用な右脳型人間のマネをして、頭の中に入ってくる情報はチンプンカンプン、そして「ああ、オレには、やっぱりこんな器用な読み方は無理なんだ……」と放り出す羽目になる。

 

これができるようになるためには、前述の、本を読みながら音楽を鑑賞する、といったトレーニングを、段階を追って知的作業の中に同時並行作業を導入していくことである。

 

スキャンニング速読法やスキミング速読法を、内容だけを説明して。やれというのは、たとえば、ビデオで尾崎將司、青木功、中島常幸といったゴルフのトッププレーヤーのプレイを初心者にみせて、「ほら、ああいうふうにやれば、ゴルフはうまくなるんだ。お前も、今日から、ああいうふうにやってみろ」といい、打ちっ放しの練習場で練習させることもせずに、いきなりゴルフ場に連れていってグリーンを回らせるようなものである。

 

素質のある人だったら、見様見真似でなんとか格好をつけられるかもしれないが、そんな人は確率的に数百人に一人であって、まず大多数の人はできない。

右脳的創造力も、意識と無意識の使い分けから始まる

最近、企業内セミナーで、右脳の活性化をテーマにしたものを取り入れているところが非常に多い。右脳の活性化とは、すなわち、創造性、独創性を育て伸ばし、ユニークなアイデアマンを作り出す、ということである。

 

ところが、そういうセミナーの結果、企業が求めるような独創性に富んだ人材が生まれた、という成功話をついぞ聞かない。セミナーなどによって人為的に作り出せるものではなく、創造性豊かなアイデアマンは、最初から、生まれながらにしてアイデアマンなのである。

 

それでは、右脳を鍛えることによって人為的にそのような人材を育てることは、不可能なのだろうか?

 

不可能ではない。ただその鍛錬方法が間違っているので、前述のゴルフにおける、プロの名選手のビデオだけをみせてすぐに実戦の場に送り込むようなことになり、結果に結びつかないのだ。独創性のない人にとっては、ユニークなアイデアというのは、あたかも〈無から有を生じさせ〉ているようにみえる。しかし、そうではない。

 

レオナルドーダーヴィンチの時代のような大昔だったら、そういうこともあったかもしれないが、今は、よほどの大天才を除いて、そのようなことはありえない。

 

それでは、どのようにして右脳的創造力が発揮されるかというと、既存の情報、それもできるだけ数多くの情報の有機的な組み合わせである。

 

たとえば、第二章で、日経がヒット商品の紹介などで扱う新製品の、角度を変えた分析方法について述べたが、ああいったことが創造性のトレーニングの始まりで、そういう発想訓練を、日常的に行うのである。

 

しかし、それも実をいうと、意識的に行ってはいけない。左脳型の人は、上司や先輩から「独創性に富んだアイデアを考え出せ」と命令されると、額に汗してなんとか必死に絞り出そうとするだろう。ところが、そういう取り組み方をすると、人間の頭脳というのは疲れるだけで、一種の空回りをするようにできているのである。

強い意識は発想の直列傾向を強めるだけ

<下手の考え、休むに似たり>という言葉がある。

左脳型の人が必死になって考えれば考えるほどロクな案が出てこず、せいぜい、どこかでみたような、というパターン化されたアイデアしか出してこない。

 

あなたにもたぶん、そのような体験があるはずだ。どうしてそうなるのかというと、これまたスポーツなどの感覚で考えてみれば、即座にわかる。スポーツでは、どうも自分のフォームがおかしい、というのでチェックしようとして、強く手のことを考えると、足のことに関しては注意がいき届かなくなる。

 

人間は過度に意識を築中すると、扱える情報の範囲がきわめて狭く絞り込まれる、という性質を持っている。何かアイデアを捻り出そう、という場合も同じで、その意識が強くなればなるほど。そのアイデアの基になるべき情報の量が反比例して減っていく。

 

結果として、悪戦苦闘したあげく、だれでも思いつくようなパターン化されたアイデアしか考えつかない、ということになる。 思考形態が直列的になって、複数の情報を複雑に組み合わせることができなくなるのである。

 

スポーツの場合ならば、全身のフォームをチェックしようと思ったら、適度に意識を希薄にし
て、手、足、腰、全部の部位を平等に考えるようにするとよい。

 

喫茶店の対話でも、相手の話に熱中しすぎないようにすれば、相手の声を聞くのと同時に隣の席の客の声も耳に入れて聞き取ることができるし、視野に入る範囲のほかの客の様子も、観察することができる。

 

そういった時の状況を思い浮かべていただくと、なんとなく、独創的なアイデアを生み出す時の心構えが飲み込めるのではないだろうか。

 

要するに、わかりやすくいえば、自分の意識をいくつにも分割して使い分ける、ということである。

 

スポーツの場合だと、全身のチェックすべき箇所の数と同じ数に意識を分割して均等に使い分ける。喫茶店の場合だと、意識の半分は話している相手に注ぎ、残り半分の意識を、いくつかに分割して周囲の客などに注ぐ。

 

それでは、アイデアを捻る場合の、意識を使い分ける比率はどうであるかというと、スキャンニング速読、スキミング速読の場合と同様で、八割ないし、九割の主たる意識はアイデアを考えることに注ぎ、残り一割ないし2割の意識で、既存の情報を検索するのである。

アイデアマン成功の秘訣は並列思考にあり!

あなたは、自分の周囲でアイデアマンとされる人間が、けっこう〈ネアカ〉でチャランポランなところがあって、 「オレがこんなに必死になって考えても、ちっともいいプランが出せないのに、あいつはたいして苦労もしないで、どうして、ああ次々とアイデアを出してくるんだろう?」と、腹立たしく思ったことは、ないだろうか。

 

もし、そんな経験があったとしたら、あなたの考え、アイデア捻出に対する発想は、根本的に間違っている。

 

銀行のCDコーナーに入ってカードを挿入すると、端末機はカチャカチャカチャ……と音を立てて、親コンピュー・夕と交信を始める。カードの挿入者の情報を、親コンピュータに検索してもらっているわけである。

 

この時、通信用の電話回線が故障したりして交信ができなくなると、検索不能になって端末機は挿入者の要望に応じることができなくなる。

 

アイデアを絞り出そうとして悪戦苦闘することは、実は、親コンピュータとの検索回線を遮断することにも等しいことなのである。 悪戦苦闘したあまり、大脳の回路の余地がなくなって、いろいろな情報を組み合わせて検索することが、できなくなってしまうのだ。

 

独創的なアイデアを思いつくためには、意識に一割ないし、二割の遊びの余地を残して、その部分に情報の検索作業を行わせなければならない。

 

スポーツにL達してくると、鼻歌まじりでも、初心者が太刀打ちできないほど上手に球を打ち、しかも、頭の中では別のことを考えたりする余裕も持てるようになるが、それと同様の気楽さが必要だ、ということである。

 

天性のアイデアマン、あるいはマルチ人間とされる人は、生まれながらに頭がよいのではなく、自然にそう’いう。適度に希薄な意識の使い方を体得していたのである。

 

そして情報の検索に使っている意識は、一割ないし二割であるから、本人の自覚としては、ほぽ無意識に近い。

 

また、外からみえない頭の中のことに関しては、「他人も、自分と同じようなやり方をしている」と思い込む(実際には、まるで違っていることが多い)のが世の常であるから、結果だけをみて、「おかしいなあ、オレのいうとおりにやれば必ずよい結果が出るはずなんだが、どうしてできないんだろう?」と首をひねって、それでもわからないものだから、要するに要領が悪いんだ、で片づけてしまうことになる。

 

天性のそういった人々に対抗できるよう、(後づけ)でこの要領を体得するためには、筆者の考えでは、速読のトレーニングをしながら、同時並行で段階的に別の作業を実行し、徐々に意識の使い分けを覚える、という訓練をやる以外にない。

 

この訓練を重ねていると、性格が変わってくる。物事にこだわり執着するタイプから、こだわらないタイプに、俗にいう〈ネクラ〉タイプから、《ネアカ》なタイプに変わる。

 

人によっては、人相まで別人のように変わってしまう人がいる。性格は、生まれながらのもので、変わらない、変えられない、という固定観念を持っている人は多いと思うが、実は訓練次第で変えられるのである。

 

だから、周囲の人々からみて、性格が明るく変わったように感じたら、その人の右脳化トレーニングは成功した、ということができる。また逆に、そのような変化がまったくみられなければ、右脳化トレーニングは実効を上げていないといえる。

日常生活から、視野を広げるトレーニングを積もう

あなたは、たとえば街を歩いていて、絶世の美女と(あるいは美青年と)スレ違って、それから数分後に、その人の容貌やスタイル。服装などを明確に脳裏に思い描くことが、できるだろうか?

 

それとも、「先刻の彼女は美人だったなあ・・」という〈印象の記憶〉だけが残っていて、容貌そのものをビジュアルに再現することは、できない口だろうか?

 

気楽に再現できる大は右脳型であり、印象の記憶は残っていてもサッパリ思い出せない、という人は左脳型である。左脳型の人は、ふだんからよく会っている人の顔を思い浮かべる場合でも、薄ボンヤリとしか思い浮かばない。

 

ところが、人の顔を思い浮かべる時の状況はだれでも自分と同じだろう、という思い込みがあるとおかしなことになってしまう。

 

たとえば、100メートルを11秒で走れる人が、全力疾走で十五秒かかる人、18秒かかる人も入り混じっている中で、「100メートルは、いつも15秒前後で走るようにしてください。そうすれば運動量として適当で、よいトレーニングになります」というアドバイスをするのに似ている。

 

それ以上の走力を持った人(同程度の右脳型の人)には適当な運動量(適当な右脳化トレーニング)であるが、全力疾走で十五秒を要する人にとっては過重な運動になるし、18秒を要するような人(知人の顔でも薄ボンヤリとしか思い浮かべられない左脳型の人)にとっては、どだい無理な注文である。

 

左脳型の人には、それ以前の段階、いったいどういうトレーニングをしなければならないか、まず、ワンステップ前を教える必要があるのだ。それがどういうことかというと、日常生活から視野を広げるトレーニングを積む、ということである。

視野が広い人と狭い人の本質的な違いは?

ところで、どうして右脳型の人は簡単に人の顔を思い浮かべることができ、左脳型の人は難しいのだろうか?左脳型の人は、なにか知的作業をする時に頭を直列処理的に使うこと、視野を極端に絞り込んで脳に遊びの部分を持たせないことが特徴であるが、実は人の顔をみる時でも、同じようにしているのである。

 

左脳型の人は人と会っている時に、目をみている時は目だけをみて、口をみている時は口だけをみて、ほかの部分をみない。もちろん、視野には入っている(受動的に網膜に映っている)から、そのことに気づかないが、いざ想像で脳裏に再現しようとすると、全体像をみていないから、再現できない。

 

初めての喫茶店で、相手と夢中になって話していて出てくると、隣の席にいた客の姿もインテリアも、まるで思い出すことができないが、それと同様の現象である。

 

喫茶店の場合は、みえているのにみず、聞こえているのに聞かず、の状態を作っているわけである。

 

それでは、右脳型の人はどうして人の顔を思い浮かべるのが得意かというと、ここでもまた、意識の使い分けを 自覚せずにやっていて、一割か二割の部分は、相手に集中せずに意識を遊ばせて容貌、身なりなどを観察することに使い、そこで得た情報を脳のデータバンクに蓄えている。

 

いつもみなれた人物の顔を脳裏に再現するくらい、豊富なデータが脳に蓄積されているのであるから、朝飯前である。

 

だから右脳型の人は、初めての喫茶店で重要な相手と打ち合わせをしたような場合でも、ウエイトレスが綺麗だった、とか、どんな絵が飾られていたとか、BGMにどんな曲が流れていたとか、一見どうでもいいことまで党えている。

 

ところが、同じBGMを聞いたとたんに、それが一種のキーとなって、手帳もみずに、打ち合わせの全容を克明に思い出したりするから、右脳型人間のこういう頭脳の遊ばせ方は、むしろ見習う必要がある。

 

さて、独創性に乏しく、画一的な発想しかできない人、独創的でユニークなアイデアを受け入れられない人のことを、俗に《視野が狹い〉という。また、突飛と思えても一応は検討してみる度量と頭の柔軟さを持った人のことを、俗に《視野が広い》という。これは、単なる形容だ、と読者諸氏は考えていたと思うが、そういう人の視野を調べてみると実は本当に視野が狹かったり、広かったりするのである。

常に視野を広げて生活すれば精神的な視野も広がる

もちろん、これは病的な視野狭窄ではないので、映像としては、ちゃんと正常に網膜に映っているから、意識的に調べない限り、わからない。どういう調査をするかというと、たとえば本書でも簡単に行うことができる。

 

四章でも触れたが、まず、活字がピッシリ埋まったページを開き、中央付近の特定の文字に視点を固定していただく。その固定したままの状態で、同じ高さの別の行の文字を、どれだけ離れた位置まで明確に識別できるだろうか?

 

まず、両隣、二行隣まではだれでも識別できるはずだが、三行目、四行目となったらどうだろうか?

次に、同じ要領で、今度は同一行で上下の方向を確認していただく。

 

上下の二文字、そのまた上下の二文字は、だれでも識別できるはずだが、三文字上下、四文字上下、五文字上下……と遠ざかっていったら、どうだろうか?

 

どこかの時点で、そこに文字が存在していることはわかるが、なんという文字かは識別できない、という状態が訪れる。そうしたら、そこがあなたの〈有効視野〉の限界である。

この有効視野をチェックしてみると、かなりの個人差があって、右脳型の人ほど広く、左脳型の人ほど狭い。

 

右脳型の人は、意識を集中している領域以外にも一割か2割の意識を散らせて、そこに存在している情報を探ってデータとして脳に蓄える、ということを日常的に行っているので、有効視野を広く保っていられる。

 

ところが左脳型の人は、意識を集中している領域だけに視野を絞り込んでみて、外側の領域は、たとえ網膜に映っていてもみないようにしているので、いつしか有効視野が狭窄してしまう。

 

そして、精神的にも余分なことに思考をさく余裕がなくなって、いつしか度量も狭くなってしまうのである。この状態を矯正するには、日常生活でも常に意識的に視野を広げて行動するようにすることである。

 

たとえば道を歩いている時、前をみているのと同時に、両側の景色もみる(できれば、その際、両側の店の看板の文字を読み取る)ようにする。道路を横断する時には、「右をみて、左をみて」ではなく、渡る先をみたまま、同時に右も左もみてしまって横断するのである。

 

これを日常生活の中でやってみた時に、強い違和感を覚える人ほど左脳型の度合いが強い、と思っていただきたい。そういう人は、道を歩く時に、ほとんど周囲の様子を観察せず、ボケっと自分の進路の前方だけをみて歩いていたので、いざ、視野を広げて行動しようとすると、強い違和感に襲われる。

 

しかし、心がけて1ヵ月もこういう訓練をしていると、次第に違和感が薄れて、視野も広くなってくる。

 

これまで、企業セミナーで左脳型の人を右脳型に転換させる訓練をやっても、ほとんど実効がなかったのは、走力もジャンプカもない人を、いきなりフィールドに引っ張り出し、フォームを教えて、即座に走り高跳びを実地にやらせるような状態だったからである。

 

ある一定以上の高さを跳ぼうと思ったら、フォーム以前に、基礎的な走力とジャンプカをつけなければならない。これまで、そういうことが見逃されていたのは、だれでも最初から生まれながらに走力とジャンプカを備えている、自分と同じである、と深く検討もせずに思い込んだ右脳型の人が指導計画を作成していたからである。

壮年世代の中堅指導者のリタイアも直列思考が原因

よく、中堅竹理職の突然死や、うつ病によるリタイアが問題になる。これは企業にとっては痛手であるから、なんとか防がなければならないが、そういう人の性格を調べてみると、大多数が性格的に不器用で律儀な人である。

 

具体的にいえば、一度に複数の業務を処理することができず、一つずつ端から順番に片づけていく、という直列処理型で、頭の切り替えがスムーズにできない。

 

退社時刻になって会社の門を出ても、頭の中では、いつまでも仕事のことが渦を巻いている。

 

そのあげくがノイローゼ、うつ病になる。これに対してトップの指導者や精神科医、カウンセラーなどは、「頭の切り替えを早くして、会社の門を出たら即座に別のことに発想を向けるようにするとよい。そうしなければダメだ」などということをいう。

 

いくらいわれても上手な切り替えができないからこそ、問題が起きるわけで、このようなアドバイスは、なんの役にも立たない。

 

その理由であるが、企業でもトップの地位にまで昇る指導者は大多数が右脳型で、常に脳に《遊び》の余地を作っており。なにかに集中している場合でも、その部分では常にほかのことを考えている。

 

いわば、〈精神的なバイパス〉があるわけで、発想を切り替えようと思ったら、単純にそのバイパスに乗り換えればよい。ところが、左脳型の人には、そのような精神的なバイパスがないから、乗り換えたくとも、乗り換えることができない。

 

アドバイスどおりに精神を乗り換えようと思ったら、そこに新たにブルドーザーで道を切り閧くような、たいへんなエネルギーを必要とする。そこで大多数の人は「ああ、自分には、こんなことはできない。今までどおりの不器用な自分でいいや……」と諦めてしまう。発想を切り替えろ、と注文をつける前に、切り替える先のバイパスを頭の中に通す訓練を先にやっておかなければならない。

 

それが、我々、新日本速読研究会が提唱している、ジョイント速読法を起点とした潜在能力開発法なのである。

 

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